狂犬病対策
日本の狂犬病の歴史
ずいぶん昔からあったのですね!
長文ですが読んでみましょう!
丹波康頼(911~995)によって,当時の中国の医書をもとにして982年に著された,日本最古の医学書である『医心方』に狂犬病の記載があるという。
しかし,実際に当時の日本で狂犬病が流行していたか否かは不明である。
まだ人口も少なく、イヌの数も多くなかった時代に狂犬病が蔓延していたとは考えられない。狂犬病が流行したとしても、中国,朝鮮からの輸入犬に起因する小規模な流行であったのではないかと推測される。
日本でイヌの数が増し,野良イヌ対策が必要になったのは徳川5代将軍綱吉の時代であった。1687年から内容がきびしくなった「生類憐みの令」によって,イヌの飼い主には飼いイヌの登録、すなわち飼いイヌの毛色,性,年齢などの特徴を犬目付まで届け出て「御犬毛付帳」に記帳してもらうことが義務付けられた.そればかりでなく,飼いイヌが病気になれば犬医者の治療を受けさせ,死亡すれば犬目付に届け出たのち無縁寺に埋葬しなければならず,また飼いイヌが行方不明にでもなれば犬目付のきびしい取り調べを受けなければならなかったという。
このため庶民がイヌに係わることを避けるようなり、野良イヌが江戸市中に急増する結果となった。幕府は1692年に人喰犬繋留命令を発布したが、効果はなかったようで、1695年にはイヌの収容所を四谷大木戸に設け、野良イヌを収容した。
しかし、たちまち満員になったため、現在のJR中野駅を中心に16万坪に及ぶ広大な犬小屋を設営し、野良イヌを収容して飼育した。この犬小屋は綱吉の死後、「生類憐みの令」の廃令とともに、1709年に廃止された。
日本で狂犬病の流行が記録されているのは18世紀以降である。
八代将軍徳川吉宗が支配した享保年間には狂犬病の大流行がみられ、イヌ、ウマ、キツネ、タヌキなどが多数犠牲になったことが記されているという。また幕府の医官であった野呂元丈(1692~1761)は著書『狂犬咬傷治方』の中で「咬まれた傷は軽くとも、あとで再び病が重くなって十中の八,九は死ぬから瘡口は早く血を吸い出して灸をすえるがよい」と記している。
江戸時代後期における狂犬病の実態は明らかではないが、十代将軍家治の要請で編纂された救急治療法集である『広恵済急方』(1788年完成)には「常犬に咬たるは(つねのいぬにかまれたるは)」、「やまひ狗に噛たるは(やまひいぬにかまれたるは)」と、健丈なイヌに咬まれた場合とやまい狗(たぶん狂犬病のイヌ)に咬まれた場合を別項目で扱って治療法が述べられていることから。少なくとも狂犬病発生がまれではなかったことが推測できる。
明治時代の初期から中期には、狂犬病が地域的に流行し、時にはかなり広範囲に流行が及んだ。特に人口もイヌ頭数も多かった東京では、しばしば狂犬病の流行に悩まされたようである。しかし、全国レベルでも府県レベルでも、狂犬病発生件数を集計し記録する体制は整っていなかったため、発生件数を明らかにすることはできず、個別的な流行の記録によって流行の程度を推定するほかない。
東京では1870年に狂犬病の発生が郊外にも及び、引き続き発生がみられたため,東京府は1876年に畜犬規則を定めた。その後も狂犬病の発生はおさまらず、1881年には畜犬取締規則が制定された。1881年以降も狂犬病の流行が続き1886年には東京府下で7名の狂犬病による死者が出た。
1893年2月、長崎市に外国人が持ち込んだイヌから狂犬病流行が発生し、5月までにイヌに咬まれた被害者は76名、狂犬病による死者は10名に達した。
この間、市民はイヌを撲殺したため、殺されたイヌは735頭を数えたという。
1894~95年にかけて長崎県全域に狂犬病の流行が広がり、狂犬病による死者は21名となった。
その後、狂犬病はさらに九州全域に広がり、流行は1902年まで続いた。この狂犬病流行に際して、当時の長崎病院内科医長栗本東明が、1895年に日本で最初のパストゥール法による曝露後免疫を行った。
栗本の曝露後免疫を受けた者は15カ月間で62名に達し、うち2名が免疫治療中に発病して死亡したといわれている。また1893年には神奈川県足柄郡に、1894年には山口県佐波郡に狂犬病が流行して牛馬の被害が大きかったという。
1896年に獣疫予防法が制定された。本法は狂犬病を獣疫(家畜法定伝染病)の中に規定し、狂犬病のイヌの殺処分を定めた。
またこれによって1897年から全国の狂犬病発生件数が公式に記録されるようになった。
1897年8月からは伝染病研究所でもパストゥール法による曝露後免疫が開始された。
伝染病研究所では発病予防処置を希望して来所する咬傷被害者にワクチン接種を行ったばかりでなく、地方での狂犬病流行に際しては出張治療も行ったようである。
1905年11月、神戸市を中心に始まった狂犬病の流行は兵庫県下に広がって約3カ年に及び、この間4,000人以上の咬傷被害者と45名の狂犬病死亡者を出した。流行の発端は猟犬を伴って岡山地方から来た猟師が宿泊した家の飼いイヌであったといわれている。
1906年には青森県下で狂犬病が流行し、狂犬病のイヌ157頭、狂犬病のウマ6頭、狂犬病死亡者11名の被害を出したが、流行の発端は日露戦争後に樺太から凱旋した軍人が連れ帰ったイヌであるといわれている。
1907年には突然、北海道室蘭に狂犬病のイヌが現れ、またたく間に近隣地方に広まり、4カ月足らずの間に狂犬病のイヌ252頭、狂犬病死亡者21名に達したという。
また流行の発端は青森県から移入された狂犬病潜伏期のイヌであるとされている。
1907年には静岡県下でも狂犬病の流行が発生し、神奈川県足柄郡にも飛び火し、1908年には山梨県でも狂犬病の流行がみられた。また神奈川県横浜を中心とした流行が1908年から1909年にかけて発生した。
1910年には宮城県の流行が岩手県下に侵入し、東京、神奈川、千葉で、また長野、九州でも狂犬病の発生がみられた。
1911年、東京で狂犬病が大流行し。その他の地方でも多数発生がみられ、明治末期の狂犬病発生増加傾向は大正時代に入ってより顕著となる。
1918年、梅野と土井が神奈川県で初めてイヌの集団予防接種を行い、1919年には東京でも集団予防接種を開始した。
その効果は狂犬病のイヌおよび咬傷被害者の減少として現れた。1921年から23年にかけて、全国の狂犬病発生件数は増加しているのに対して東京では384件、212件、126件と減少を続けた。
しかし、1923年の関東大震災による混乱のため1924年には726件と激増した。
1923年には流行の中心は大阪に移り、狂犬病のイヌは1,338頭に達して全国発生の約半数を占めた。また例年、狂犬病発生がみられなかった北陸地方、四国地方でも狂犬病が発生し、全国規模の流行となった。
1924年は関東大震災の影響で東京での狂犬病発生件数が700件を超えただけでなく、大阪でも600件以上、神奈川県と兵庫県でも200件以上となり、史上最多の発生件数に達した。
これより先の1922年には家畜伝染病予防法が制定された。
これによって、イヌばかりでなく、狂犬病を発病したすべての家畜の殺処分が定められた。
1925年から飼いイヌの予防接種と野良イヌの取り締まりが強力に進められた。
1925年にも大阪700件、東京600件、神奈川500件、兵庫400件以上の狂犬病発生があり、前年とほとんど変らない件数であったが、1926年以降は明らかに減少し始める。
1925年からは東京に替わって大阪での発生件数が全国最多となったが、大阪での大流行も1929年の116件を最後に急激に減少した。
1930年には全国発生件数が2桁になり、1933年から43年までの発生件数は1~21件になった。